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松江地方裁判所 昭和50年(ワ)13号 判決 1977年3月23日

原告

岩田美和子

ほか二名

被告

石倉俊男

ほか三名

主文

一  被告石倉俊男、被告有限会社佐藤洋品店、被告佐藤広は、各自、原告岩田美和子に対し金六四八万三、五五九円と内金六〇八万三、五五九円に対する昭和四七年四月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告岩田裕司に対し金一、二九九万五、五九五円と内金一、二五九万五、五九五円に対する右同日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告岩田佳子に対し金二、〇〇二万二、一〇二円と内金一、九六二万二、一〇二円に対する右同日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、それぞれ支払え。

二  原告らの被告石倉俊男、被告有限会社佐藤洋品店、被告佐藤広に対するその余の各請求をいずれも棄却する。

三  原告らの被告松江市に対する請求を棄却する。

四  訴訟費用は、原告らと被告石倉俊男、被告有限会社佐藤洋品店及び被告佐藤広との間においては、原告らに生じた費用の三分の一を右被告三名の負担とし、その余は各自の負担とし、原告らと被告松江市との間においては全部原告らの負担とする。

五  この判決は、原告ら勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは各自、原告岩田美和子に対し、金一、二〇五万一、四一六円とこれに対する昭和四七年四月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告岩田裕司に対し金一、九五三万三、四五二円とこれに対する右同日から支払ずみまで年五分の割合による金員を、原告岩田佳子に対し金三、一五〇万七、八八四円とこれに対する右同日から支払ずみまで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二当事者間の主張

一  請求原因

1  本件交通事故の発生

(一) 日時 昭和四七年四月二九日午後一時ころ

(二) 場所 松江市竹矢町一、七三八番地先国道九号線(以下本件道路という。)アスフアルト舗装

(三) 加害車両 (1) 被告石倉運転のマツダ号普通乗用自動車(島根五五さ三五八四。以下石倉車という)。同乗者は勝部政男。

(2) 飯塚定雄運転の三菱乗合自動車(島根二二か一八。以下本件バスという)。

(四) 被害車両 岩田俊男運転のマツダ号普通乗用自動車(島根五五せ七七三)。同乗者は俊雄の妻たる原告美和子、その子である原告裕司・佳子の三名。

(五) 事故の概要 西進して来た石倉車が、東進して来て本件現場で右折横断を開始した本件バスとの衝突を避けるため右に転把したところ本件バスに後続して東進して来た被害車に衝突した。

(六) 結果 俊雄(大正一四年四月七日生、松江市立城北小教員)は事故日に死亡し、原告美和子(昭和七年四月一八日生、松江市立乃木小教員)、同裕司(昭和三〇年八月二日生、松江南高校二年)、同佳子(昭和三四年一一月二六日生、松江第三中一年)は各傷害をうけた。

2  本件事故の具体的態様

松江市街から東進して来た本件バスが道路の南側に設けられていた市営バス青空駐車場に入るため道路中央線沿いに一時停止した。そのとき、本件バスの運転者飯塚は六〇ないし七〇メートル東方に石倉車が時速七〇ないし八〇キロメートルで西進して来るのを認めたものの右折横断を開始した(開始から南側の駐車場に入るまでに要した時間はおよそ六秒である)。他方、石倉車は本件バスが自車の進路妨害しないであろうと思つて直進を続け、本件バスが道路の中央線を斜め半分程度越えているのを約四〇メートルに接近して初めて気付き、急制動の措置を執り、更に本件バスの手前約一五メートルに近付いたとき本件バスが自車の進路を横に塞ぐ状態になつたのを認め、右に転把して本件バスとの衝突を避けたものの、自車を中央線反対側に進入させ、折から本件バスの後方を追従して本件バスの右折にともない道路左側に寄り徐行東進していた被害車と正面衝突した。

3  被告らの責任原因

(一) 被告石倉には前方不注視、車両通行帯通行方法違反の過失があり、不法行為者本人としての責任がある。

(二) 被告会社は石倉車を継続的にその乗務に使用しかつ運転に必要な経費の一部を被告石倉に支給していたものであるから、石倉車を自己のために運行の用に供していた者というべく、自賠法三条による責任がある。

(三) 被告佐藤は被告石倉の使用者である被告会社に代つて被告石倉を選任しかつ同被告の業務執行を監査していた者で、本件事故は被告会社の業務を被告石倉が執行中に前記過失により生じさせたのであるから民法七一五条二項による責任がある。

(四) 被告松江市は本件バスの運行供用者であり、本件事故は右バスの運行によつて惹起されたのであるから、自賠法三条により責任がある。

4  損害

(一) 傷害の部位、程度

(1) 原告美和子は頭部外傷Ⅱ型、左前胸部及び右上腕部打撲傷、外傷性クモ膝下出血、左後頭部骨折を負い、事故日から同年六月一日まで三四日間入院し、退院後同年一〇月三〇日までの一五一日間に二四日ほど通院した。現在後遺症はない。

(2) 原告裕司は頭部外傷Ⅱ型、顔面挫創、外傷性クモ膜下出血、頭蓋内圧亢進を負い、事故日から同年六月一日まで三四日間入院し、退院後同年一〇月三〇日までの一五一日間に一四日ほど通院した。現在後遺症はない。

(3) 原告佳子は頭部外傷Ⅲ型上顎骨骨折、鼻根骨骨折、上前歯脱臼、前頭骨陥没骨折、前額部及び右上眼瞼挫創を負い、一二四日間入院した(事故日から同年六月一一日まで松江市立病院に、同年七月二一日から同年八月一九日まで、同年一二月二日から昭和四八年一月二日まで、同年三月三〇日から同年四月八日まで、同年七月一九日から同月二六日までいずれも東京警察病院に各入院)右のほか昭和四九年三月までの間に右各病院に通院した日がある。右負傷により膜覚完全脱失、顔面の著しい醜状、鞍鼻の各後遺障害が昭和四九年三月二九日固定した。右後遺障害は自賠法施行令別表の第七級一二号及び第一二級に該当し、綜合して第六級となる。

(二) 本件事故により俊雄及び原告らが蒙つた損害の項目、数値、填補の内容、金額などは別表ⅠないしⅤのとおりである。

原告らは前示身分より俊雄の損害賠償請求権をそれぞれ三分の一ずつ相続した。

(三) 慰藉料算定に際し特に考慮されるべき事情は次のとおりである。

(1) 原告らはいずれも前記傷害を受けて治療生活を余儀なくされ、殊に原告佳子は鞍鼻を整形するために鼻根骨の代替として合成樹脂を挿入しており、これを毎日消毒する作業を一生続けなければならず、また鼻根骨骨折により思春期を迎える女にとつて命以上に大切と思うであろう外貌に著しい醜状を遺し、かつ嗅覚をも脱失した。右後遺障害よりみて将来就職しうるとしても、その労働能力に著しい低下を来すことは明らかである。

(2) 更に、原告らは幸福で善良な家庭環境に恵まれていたのに、本件事故により一家の主柱たる最愛の俊雄を失い、今後進学する原告裕司及び身体的障害を遺す原告佳子らの一家三人の生活はすべて原告美和子の双肩にかかり、一瞬にして将来の光明を失うこととなつたのである。

5  結論

よつて被告ら各自に対し、原告美和子は一、二〇五万一、四一六円、原告裕司は金一、九五三万三、四五二円、原告佳子は金三、一五〇万七、八八四円の各損害賠償金および右それぞれに対する不法行為の後である昭和四七年四月三〇日より完済まで年五分の遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び反論

1  被告石倉

(一) 請求原因1の事実は認める。

(二) 同2の事実は否認する。

石倉車の制動開始前の速度は時速約七〇キロメートル(秒速一九・四四四メートル)であり、空走時間を一秒とすると空走距離は一九メートルぐらいとなる。ところで本件事故において滑走距離は三六メートル、本件バスの車体の長さは九・一メートル、本件バスが右折を開始して車体後尾が車道南側の外側線を通過し終るまでの距離は一三メートルでその所要時間は平均七・二五秒となり、石倉車と本件バスの後部とがすれすれですれ違つた時点では右バスは右折開始後車体の長さ程度しか進行していなかつたことになり、本件バスは石倉車が四〇ないし五〇メートルに接近したころ右折を開始したものとみるべきである。

(三) 請求原因3の(一)は否認する。

被告石倉はそのまま直進すれば右折する本件バスに衝突する危険があるのでそれを避けるためやむなく右へ転把して反対車線に進出したものである。当時の状況上被告石倉としては本件バスが徐行又は一時停車して西進車の通過を待つてくれるものと期待するのは経験上当然で、停止していた本件バスが西進車の迫つている段階でこれと衝突の危険があるのにかかわらず右折するとは何人も予見できないところであり、いわゆる信頼の原則上、本件バスの運転者である飯塚は石倉車の通過をまつて発進し右折すべき注意義務があつたのであり、被告石倉には過失はない。

(四) 請求原因4のうち、損害填補は認めるが、その余は不知。

(五) 同5は争う。

2  被告会社及び被告佐藤

(一) 請求原因1の事実は認める。

(二) 同2は否認する。

(三) 同3の(一)ないし(三)は否認する。

本件事故は被告石倉の私用中にしかも同被告の所有する自家用車(白色のカペラ)により惹起されたものであるから被告会社は自賠法三条の運行供用者に該当せず、また被告石倉は被告会社の業務を執行していたわけではないから被告会社には民法七一五条一項による使用者責任はなく、従つて被告佐藤も同条二項による責任はない。被告石倉は被告会社の伊勢宮支店に所属して紳士服などの外交及び店頭販売に従事していたものであり、事故当日も右支店で店頭販売に従事すべきであつたにもかかわらず、勤務時間中に本店勤務の従業員である勝部政男と店頭販売を放置して、当日開店した八束郡東出雲町意東にある白鳥ボウリング場へ赴き、ボウリングをしての帰途に本件事故を起したのである。それ故、石倉車の本件運行は全く被告石倉の私用中のものであつて、被告会社の業務執行中のものではない。被告石倉は従前より自家用車である赤色のスバルで通勤し営業用としては被告会社の指示により同会社所有の軽自動車を使用していた。そして被告会社は被告石倉に対し通勤手当として二、二〇〇円(バス定期代の約半額分)を支給していた。ところが被告石倉は昭和四七年三月に入り右自家用車を業務用に使用するようになつた。三月は他の月より業務多忙であるという事情もあつて三月中に限り右自家用車の使用を認めざるをえなかつたのであり、三月に限り通勤手当として一五〇リツトルのガソリンチケツトを支給した。しかしこれは三月のみの臨時的措置で、四月一日以降は被告会社の車両を使用するよう指示したのである。従つて四月以降は従来通りの通勤手当を支給する予定であつた。しかるに、被告石倉は本件事故の一週間前の四月二二日自己の自家用車を赤色のスバルから白色の流線型のカペラ(同車は後方が低くなつていて主としてレジヤー向きの乗用車で営業用には向かないものである。)に買換えたのであるが、もとよりこのことは被告会社の代表取締役である被告佐藤及び専務取締役である米沢敏治に相談したことも通告したこともなく、また被告会社の車両置場に駐車せず他の判らない場所に駐車せしめていたため、右両名は被告石倉がカペラを使用していたことは全く知らず、本件事故が発生して初めて右買替えの事実を知つたものである。このように本件事故は被告会社においてもまた被告佐藤においても全く認識のなかつた被告石倉の所有車であるカペラによつて惹起されたのである。

(四) 請求原因4のうち、損害の填補は認めるが、その余は不知。

(五) 同5は争う。

3  被告松江市

(一) 請求原因1の事実は認める。

(二) 同2は否認する。

(三) 同3の(四)のうち、被告松江市が本件バスの運行供用者であるとの点は認めるが、本件事故が右バスの運行に関し惹起されたことは否認する。

本件事故は被告石倉車により惹起されたもので、被告松江市の所有する本件バスにより生じたものではない。

(四) 請求原因4のうち(一)の事実は不知。(一)のうち、損害の填補は認めるが、その余は不知。同(三)のうち、(1)は否認し(2)は認める。

(五) 同5は争う。

三  抗弁

1  被告石倉(弁済の抗弁)

原告らは葬儀料、治療費などとして被告石倉から一〇二万〇、九八七円を、被告会社から一二二万〇、九五八円を受領している(これらのうち原告らが本訴請求の損害項目外に填補したものがあり、この点は慰藉料算定上考慮されるべきである)。

2  被告松江市(免責の抗弁)

本件事故が仮に本件バスの運行に関して惹起されたものとしても、被告松江市はもとより本件バスの運転手飯塚は右バスの運行について無過失であり、第三者である被告石倉に速度制限違反及び前方不注視の過失が存し、本件バスには構造上の欠陥及び機能の障害はない。従つて被告松江市には運行者責任は生じない。すなわち、

(一) 石倉車は時速八五キロであり制限時速六〇キロをはるかに超えていた。すなわち事故現場に残つていた石倉車のスキツド痕は三六・四メートルである。そして衝突時における相対速度は死亡事故が生じていることから少くとも時速三〇キロ以上と推算すべく、被害車は始動直後であるから時速五キロ程度、従つて対応する石倉車の時速は二五キロ程度と推定でき、当時乾燥していたアスフアルト道路での時速二五キロにおける制動距離は三・四四メートルであるから、衝突がなく制動による自然停止をまつた場合の石倉車の実制動距離は三九・八四メートルまで延びる。このことより石倉車の時速は、この実制動距離より逆算される八五キロ程度であつたとみられる。丙第八号証の一、二(鑑定書)もこれを裏付ける。被告石倉は制動開始前に時速七〇キロであつたと主張するが、時速七〇キロでの実制動距離は二七メートルであり、スキツド痕の前示長さにそわず、右主張をとれば本件バスに接近するに至らずに石倉車は停止していたという奇妙なことになる。なお、衝突時の石倉車の時速が二五キロ程度とみることの妥当性は以下の推算によつても明らかである。即ち、時速八五キロ(秒速二三・六一メートル)で走行中の自動車に急制動をかけた場合、空走距離が終了し実制動に入つてからt秒後の車の秒速V(メートル)は、一般に次の式で表わされる。

V=23.61-kt………(1)(kは常数)

時速八五キロ(秒速二三・六一メートル)での実制動時間は三・三七秒、即ち実制動後三・三七秒で車の速度は零となるからこれらの数値を(1)式に代入するとKの値が求められ、(1)式は次の(2)式で表わされる。

0=23.61-K×3.37 ∴K=7

V=23.61-7t………(2)

また、実制動に入つてからt秒の間に車の進行する距離S(メートル)は、次の(3)式で表わされ、前記のKの数値を代入すると(4)式となる。

S=23.61t-kt2/2………(3)

S=23.61t-3.5t2………(4)

現場に残された前記のスキツド痕の長さ三六・四(メートル)を右の(4)式のSに代入するとt=二・三八(秒)即ち衝突までの実制動時間は二・三八秒であつたことが明らかとなる。そして、この二・三八(秒)を(2)式のtに代入するとV=六・九五となる。即ち、衝突時の速度は秒速で六・九五メートル、時速で二五キロとなるのである。

(二) 本件バスの右折開始時には、バスの前面と石倉車との距離はおよそ一二〇メートル程度あり被告石倉には前方不注視がある。すなわち、本件バスの右折開始時から右折終了までの時間は八秒ないし六・五秒であるが丙第一号証(刑事判決書)に従つてこれを六秒と推定する。石倉車と被害車との衝突は、本件バスの右折終了と殆んど同時とみられるから(丁第一号証)、右折開始から衝突までの時間は右の六秒とみてよい。石倉車の急制動操作に入つた後の空走時間を一般基準の最少値である〇・七秒として(従つて空走距離は、同車の時速が前記八五キロであるから、一六・五メートルとなる)、これと衝突までの実制動時間二・三八秒(衝突までの実制動距離は前記のとおり三六・四メートル)を差引くと二・九二秒となり、これは本件バスの右折開始時から被告石倉車が急制動に入るまでの時間である。石倉車の制動前の速度は八五キロメートル(秒速二三・六一メートル)であるから、右の二・九二秒の間に同車は六八・九メートル進行したことになる。この制動前の走行距離に前記の空走距離及び衝突までの実制動距離を加えると一二一・八メートルとなる。つまり、本件バスの右折開始時には石倉車と衝突地点との距離は一二一・八メートルあつたのである。そして、甲第三号証(実況見分調書)より停止していた本件バスの前面と衝突地点との距離は三・二メートルであることが明らかであるから、本件バスの右折開始時には、右バスの前面から被告石倉車までの距離は一一八・六メートルあつたのである。右の結論は本件バスの前記右折所要時間が六秒であることを前提にしたものであるが、これを七・二五秒とすれば、右の距離は更に大きく一五〇メートル程度となるのである。このことは被告石倉が前方に全く注意を払わなかつたことを物語る。

(三) 石倉車が制限時速六〇キロを遵守していれば制動措置をとることなく進行しても、危険を発生しない十分の余裕があつた。本件バスの右折所要時間を前記の六秒としても、石倉車が時速六〇キロ(秒速一六・六七メートル)の制限速度を遵守していたならば、右の六秒の間に同車は一〇〇メートル進行していたにすぎず、バスの右折終了時では石倉車と衝突地点の距離はなお二一・八メートルもあつたから衝突の危険はなかつたのである。右折所要時を七・二五秒とすると右の距離は二一・八メートルより更に大きく三〇・五メートルもあつたことになる。

(四) 本件事故現場附近の道路の有効幅員は約六メートル、従つて北側半分は約三メートル、外側線外の幅員一・五を加えてもセンターラインより北側の幅員は約四・五メートルである。従つて、センターライン寄りにバスが停止していると後続車がこれを追い抜くことは殆んど不可能であり、本件現場は車の交通が極めて頻繁であるから本件バスの後方に数台の自動車が右バスの右折終了を待つて停止していたことは十分考えられる。本件バスはこれらの後続車に対してはその正常な交通を妨害しているわけで、この妨害は止むを得ぬこととはいえ、一刻も早く除去しなければならない。対向車との距離について大事をとつて永く停止しおればおるほど、後続車に対する妨害は大きくなる。従つて、バスの運転手は、適切な時期に速かに右折行動を開始すべき責任があるわけである。永年の経験によりまた幾百回にわたる実績から危険なしと見て右折行動に入つた本件バスの運転手飯塚の判断は極めて妥当なものであり、右折発進に過失はない。

(五) 飯塚は、石倉車が五、六〇メートルに近づいたとき、初めて同車が高速度で危険だと察知したのであり、このとき既に本件バスは右折動作の半ばを超えていたから、右折を止めて後退することはかえつて危険であり、できることではない。飯塚が右折開始にあたり石倉車が制限速度を遵守して走行して来るものと信じたことに過失ありや否やであるが、対向車の速度を百メートル以上離れた位置より判定することは通常不可能であること、制限速度を守り前方を注視することは極めて基本のことであり車の輻輳する場所で右に違背する運転者は殆んどないこと、制限速度を超過して走行中の車でも前方に方向転換するバスなどの障碍を認めれば危険を避けるため当然減速すること、これからして信頼の原則の適用により、本件バスの運転手飯塚には被告石倉のかかる違法運転を予想すべき義務は存しないものというべきである。

四  抗弁に対する認否及び反論

1  抗弁1(弁済)は、前記の葬祭費として一五万円、療養費等として計八〇万円を受領していることは認めるが、これを超える部分は否認する。

2  抗弁2(被告松江市の運行供用者免責)は否認する。

被告松江市の主張は、飯塚が右折を開始したとき本件バスと石倉車との距離が一四四メートルあつたことを前提にしている。しかし、石倉車が制動措置を採つたのは、本件バスの右折開始時よりほぼ一・五秒を経過した時点であり、このとき石倉車と本件バスとの距離は約四〇メートルと推定され(丙第一号証参照)、右折開始時に石倉車と本件バスとの距離が一四四メートルあつたとするなら、石倉車はこの一・五秒の間に約一〇〇メートル進行し、その速度は時速二四〇キロとなり、かかることはありえない。仮に石倉車が時速九五キロ(丙第九号証)であつたとすると秒速は二六・四メートルであるから一・五秒の間に約三九・五メートル走行し、これに石倉車が制動措置を採つたときの本件バスとの距離四〇メートルを加えると本件バスの右折開始時点での両車間の距離は約八〇メートルとなり丙第一号証刑事判決の認定と一致するのである。そして、道交法二五条の二によると、車両は他の車両の正常な交通を妨害するおそれがあるときは道路外の施設若しくは場所に出入するために右折してはならないのであり、「他の車両の正常な交通を妨害するおそれがある」とは、車両が同一方向又は反対方向から直行してくる他の車両がそのため一時停止し、徐行し、又はその進路を変えなければ引続き進行することができなくなることをいうのである。従つて、本件バスも右折により、石倉車を一時停止させたり、徐行させたり、又はその進路を変えさせたりしてはならず、本件バスは石倉車の到達前に右折が完了できぬときは右折を始めてはならないのである。ところが、仮に石倉車が違法な速度である時速六〇キロメートルで進行したとしても、本件バスの右折開始時にはバスとの距離は右の如く約八〇メートルであるから、一・五秒後には五五mに近付き、四・七秒後にはバスと衝突する。本件バスは右折を開始して約一・五秒後には道路中央線を斜半分通過し道路南側を塞ぐに至るから、右折開始直後から石倉車との危険性が生じ、これが六秒程度継続する。飯塚は石倉車の到達前に右折を完了することが困難であることを予見し、あるいは、これを予見しえたにもかかわらず敢て右折行為を行つたのであり、過失がなかつたとはいえないのである。なお、被告松江市は、本件道路のように交通頻繁な道路においてはバスが大事をとつて永く停止しておれば交通渋滞をきたし不都合であると主張するが、これはバスの円滑な運行のためには道交法に違反し他の車両等に危険を生ずるもやむをえないという論である。右主張は、バスの右折、転回に伴う危険を防止するために被告松江市が注意標識の設置等相当の設備をなしている場合ならともかく、右設備をしたことについて主張、立証をしていないのであるから、右議論は成り立たないというべきである。

第三証拠関係〔略〕

理由

一  請求原因1(本件事故の発生)の事実は、当事者間に争いがない。

二  (事故現場の状況と石倉車のスキツド痕)

成立に争いのない甲第二、第三(丙第三号証の一、二はこれと同一)、第六(丙第八号証の一はこれと同一)、第七号証、乙第一号証の二、丙第四号証の一、二、事故発生地附近を撮影したものであることにつき争いのない丁第八号証の一ないし三、証人飯塚定雄の証言を総合すると、次の事実が認められる。

1  本件事故現場の道路は東西に走り、前示争いないアスフアルト舗装が中央にあるほか南北両側に路肩に続く狭い土道があつてその幅員は併せて約七メートルであり、センターラインが設けられている。そして事故現場付近から東方に向つて道路は北へゆるやかに曲つているが、路面は平担で、事故時晴天であつたから乾燥していたと推認される。なお本件事故当時、事故現場付近には標識等による格別の速度制限がなされていた証拠はなく従つて、政令で定める時速六〇キロメートルの規制によるものといいうる。

2  事故現場の道路の南側に市営バスの方向転換場(以下転換場という。)が設けられており、その出入口は本件道路に面しており、バスの出入が頻繁なためこの付近をよく車で往来する者はバスの方向転換場がここにあることを当然に知る機会がある。

3  事故現場には石倉車の左右両輪のスキツド痕が残されていた。右輪のスキツド痕(以下これを本件スキツド痕という。)の長さは約三六メートル、左輪のそれは約五メートルである。本件スキツド痕はその始端が道路中央線の約一メートル南側にあり、道路中央線とほぼ平行して走り、始端から約二〇メートル進んだ地点あたりから徐々に道路中央線に近付き、始端から約三〇メートル西方の地点で中央線と交叉して(この交叉している地点は転換場入口幅の西端より僅かに東方寄りである。)反対車線たる北側道路部分に進入し、同部分のほぼ中央で被害車と衝突して停止した石倉車の右前輪下に終端がある。左輪のスキツド痕は右の衝突直前についたものである。

4  石倉車は車長四・一五メートル、車幅一・五八メートル、被害車は車長三・九七メートル、車幅一・五九メートルであり、石倉車は中央線を縦軸にみたてて約二〇度ないし二五度右に角度を振つた状態でその左前部を北側道路部分のほぼ中央を東進していた被害車の右前部に衝突させ、両車は大破したものである。この衝突時に石倉車は左後の極小部を左車線内に残しているだけである。衝突により両車はその場で停止したが、被害車は衝撃により北側に押されてその後尾が北側路肩の外に出ているが押し戻される程度には至つていず車尾を右にふつた形になつている。右衝突地点は転換場入口幅の西端より約五メートル西方寄りである。以上のように認められる。前記乙第一号証の二には道路の幅員等について前記甲第三号証(実況見分調書)と異なる記載があるが、前記丙第四号証の一及び丁第八号証の二に照らすと、本件事故後事故現場に歩道が設けられ道路の幅員等に変更があつたことが窺われるから、事故後に作成された乙第一号証の二の右認定と異る記載をたやすく措信することはできない。証人飯塚定雄の証言中には事故当時事件事故現場付近は時速五十キロの速度制限があつた旨の証言部分があり(なお同証人は別に六十キロともいつているが)、また成立に争いのない甲第四号証中にも同旨の記載があるが、証言及び記載自体から記憶の正確性に疑問があり、たやすく措信することはできない。そのほかに右認定を覆すに足りる証拠はない。

三  (本件バスの右折の状況)

前記甲第三号証、丙第四号証の一、二、成立に争いのない甲第四号証、丁第二、三号証原本の存在とその成立につき争いのない戊第一号証、その方式及び趣旨と弁論の全趣旨により真正に成立したものと認めうる戊第六号証、証人飯塚定雄の証言を総合すると、次の事実が認められる。

本件バス(車長九・三四メートル、車幅二・四八メートル)は北松江と竹矢町との間を運行するいわゆるワンマンバスであり、運転手飯塚は終点の竹矢支所前で乗客をすべて降したのち、転換場でバスの方向を転ずべく本件道路を東進し転換場入口手前三〇メートルあたりから方向指示器により右折の合図をしつつ北側道路部分を進行し、入口西端の若干手前でいつたん停止して数台の対向車をやりすごし、車両の流れが切れた際、西進して来る石倉車がかなり離れているのを確認したうえ、右折を開始した。右停止時には車首は東に正対し右輪は中央線の直近でほゝ沿つていた。そして、右折の中途で左方を再び見たところ、石倉車がかなりの速度で疾走して来るのが認められ危険を感じて右折を急いだ。バスの左後部と石倉車の左前部との間隙はほんのわずかの距離で両車はすれ違い、本件バスは転換場に入つた。

このように認められこれを覆すに足りる証拠はない。

ところで、前記丙第四号証の一、二によると、バスが入口手前三メートルの停止地点から右折を開始し、バスの後尾が南側外側線を通過するまでに要する時間(以下右折所要時間という。)は六・二五秒又は八秒であるとの実験結果が得られており、これと右認定の飯塚が右折の中途で石倉車の疾走、接近に気付いて右折を急いだ事実とを併せ考えると本件バスの右折所要時間は六秒程度であつたものと推認される。そして、前認定のスキツド痕の軌跡と転換場入口との位置関係、石倉車及び本件バスの各車幅などを考え合わせると、石倉車が横向きになつて横断進行する本件バスの後尾の空いた道路空間に突入した地点は前示スキツド痕が道路中央線と交叉するところあたりであり、そのとき本件バスの後尾はすでに南側外側線の直近にあつて右折をほぼ完了した状態に達していたものと認定できる。右認定を妨げる証拠はない。

四  (石倉車の速度の推定)

本件スキツド痕の長さは前示のとおり約三六メートルである。そして、右スキツド痕の終端が前輪によるものであることは明らかであるが、その始端が前、後輪のいずれによるものかは証拠上不明で後輪によるものと考えうる余地があるから、軸距(前輪と後輪との間の距離)を右長さから減じたものを実制動距離とすべきところ、他方石倉車は衝突により停止したものであり、前示の衝突の状況、車両の損壊程度などに照らすと右衝突がなければなお石倉車は滑走しスキツド痕は少くとも右の軸距程度は延びていたものと推認できるから、これらを加減して実制動距離は少くとも本件スキツド痕の長さ三六メートルと考えておくのが相当である(被告松江市は、石倉車と被害車との衝突時における相対速度は時速三〇キロ以上で、被害車は始動直後であつたから時速五キロ程度、石倉車の速度が時速二五キロ程度と推定でき石倉車の右速度からスキツド痕は三・四四メートル延びたはずであると主張しているが、なるほど双方の車両は大破しているものの、反面被害車は衝突の衝撃によりそれほど移動しておらず、衝突時の時速が被害車五キロ程度、石倉車二五キロ程度と断定することはできないものというべきである。)。そして、本件道路は平坦なアスフアルト舗装で事故当時乾燥状態であり、また被告石倉本人の供述によれば石倉車は四六年型の中古車ではあるがタイヤは新しいものを付け替えたばかりであつたことが認められ、これらの事情を考慮すると路面とタイヤの摩擦係数は〇・七程度とみて妨げない。しかして、実制動距離が三六メートル、摩擦係数が〇・七の場合には一般の関係公式(制動前の速度の二乗=二五九×実制動距離×摩擦係数)を適用すると、制動前の速度は時速約八〇キロとなる。これに加えて、成立に争いのない丙第八号証の二によれば、石倉車と同じ車両(ただし、四七年型のもの。)を用いて平坦かつ直線の乾燥アスフアルト路面において二名乗車して制動試験を実施したところ、時速七〇キロの場合の平均スキツド痕の長さは二二・二メートル、時速八〇キロの場合のそれは三〇・六メートル、時速八五キロの場合のそれは三三メートルであるとの結果が得られたことが認められる。これらと前記証人飯塚の証言、前記甲第四号証、丁第二、三号証成立に争いのない丙第九号証を総合すると、石倉車の制動開始前の速度は時速八〇キロ以上であつたものと推認される。被告石倉本人は時速約七〇キロで走行していたと供述し、また成立に争いのない丙第五、第六号証、丁第四、第六、第七号証中にも同旨の記載があるが、本件スキツド痕の長さ及び衝突時の衝撃力の大きさ自体に照らしてみても、とうてい措信しうるものではない。なお、前記甲第六号証によれば、本件スキツド痕は、石倉車がかなりの高速で道路の右曲りに沿つてハンドル操作をしつつ急制動をかけたため、遠心力によりわずかながら左右の車輪の荷重分布に差が生じ、荷重の軽くなつた右車輪が早くロツク(車輪が回転しなくなること。)したことが主因となつて生じたものであることが認められ、また前示丁第七号証、被告石倉本人の供述によれば石倉車の制動系統等車両自体に故障はなく被告石倉は急制動をかけた際にブレーキを深く踏んだことが認められるから、左輪にも制動の効果が及んでいたことは明らかである。従つて、左輪に制動効果が生じないで転動しつつ右輪のみに右効果が及んでスキツド痕が生じたような場合には右輪のみのスキツド痕の長さから前記関係公式を用いて制動前の速度を推定することはもとよりできないが、本件スキツド痕はそのような場合ではないから、右公式を用いて制動前の速度を推定する妨げとはならない。そのほかに右認定を妨げるに足りる証拠はない。

ところで、被告石倉が急制動の措置を採つたのち実際に制動効果が生じた地点(本件スキツド痕の始端)から石倉車と本件バスとがすれ違つた地点(本件スキツド痕が道路中央線と交叉する地点あたり。)までの距離は前示約三〇メートルであるが、先に認定した石倉車の速度(時速八〇キロ、秒速二二・二メートル)及び制動による逓次減速を考慮すると、石倉車が約三〇メートルを進行するに要した時間は二秒程度であつたものと推認しうる。しかして、前示のとおり石倉車が本件バスの横断線に達した際には本件バスは右折終了間際であつたのであるから、石倉車が本件スキツド痕の始端の地点を通過するとき、本件バスは右折を開始してほぼ四秒近くを経過していたのである。従つて、本件バスが右折を開始した時点では、石倉車は本件スキツド痕の始端から始端直前の空走およびその前の平常走行を合せて九〇メートル程度(二二・二メートル×四秒)も東方寄りの地点即ち本件バスの横断線から約一二〇メートルも東方の位置にあつたものといわざるをえない。

五  (責任原因)

1  被告石倉の過失

前認定の一ないし四の事実と前記甲第四号証、丙第四号証の一、二、第五、第六号証、戊第六号証、証人飯塚の証言、被告石倉本人の供述を総合すると、次の事実が認められる。

被告石倉は時速八〇キロ以上の高速で本件道路を西進し、前示転換場入口より東方百数十メートルのあたりにさしかかつた。このとき、本件バスは転換場に右折、進入するためその入口より若干四方の左車線内に一時停止していたのであるが、被告石倉は前方の注視を怠つていたので右バスの存在に気付かず同速度のまま走行を続けた。そして被告石倉は本件バスとの距離が六十数メートルに近付いたあたりで右バスの存在に気付いた。このとき本件バスは既に右折を始めていたのであるが、被告石倉は右バスが自車の通過を待つているものと軽信し、助手席の勝部政男と言葉を交わしながら右バスの動向を注視することなく減速もせずに進行し、衝突地点の手前四五ないし五〇メートル(これはスキツド痕約三六メートルと実制動前の措置後空走時間、知覚反応時間の合計時間内に秒速約二二米で走つた距離との総距離である)に接近してバスの前部が既に南側道路部分の中央あたりまで進入しているのに気付きただちに急制動の措置を採り、バスの約一〇メートル手前で右に転把してかろうじてバスとの衝突を避けたが、バスの後方から東進して来た被害車と衝突した。

このように認められる。

右事実関係に徴すると、被告石倉は往来の繁しい幹線道路を危険発生の高い高速毎時約八〇キロで疾走し、しかも前方への注視を怠り、進路前方の交通状況に対応できる態勢を整えることなく見込み運転をし、本件バスが既に右折のため始動していたにもかかわらずバスの動きに十分な注意を尽さなかつた過失があることは明らかである。被告石倉本人は約四〇メートルに接近した際、本件バスが急に右折をしたのでただちに制動の措置を採つた旨供述し、前記丙第四号証の一、二、第五、第六号証にも同旨の記載があるが、これらは前示のスキツド痕長、バスの大きさ、右折所要時間ならびに飯塚の証言によつて認められる、バスは右折発進時セカンドのギアで出て当初時速四、五キロから始つたことと対比し措信できない。なお、前記甲第三号証及び丁第六号証中には、被告石倉は五二・三メートルに接近した地点で本件バスが道路中央線沿いに前面を東方に向けている状態を発見し、更に一三・九メートル進行した地点(本件スキツド痕の始端より五・二メートル東方の地点)で本件バスが南側道路部分を塞ぎ後部が道路中央線付近まで進行した状態になつているのに気付いて急制動の措置を採つた旨の記載があるが、石倉車が前示の高速度で一三・九メートルを進行する間に本件バスが右の状態に移行するとは到底認め難く、また空走距離がわずか五・二メートルであつたとの点も石倉車の速度に照らして不合理であり信用できない。

そうすると、本件事故は被告石倉の前示過失により生じたものであり、同被告は右事故による後記の損害を賠償する義務を負う。

2  被告会社の運行供用者責任

前出の丙第五号証、丁第四、第六、第七号証、被告石倉本人の供述、証人米沢敏治の証言及び被告佐藤本人の供述並びにこれらと弁論の全趣旨により真正に成立したものと認めうる乙第五、第九号証、第一〇号証の一、二、第一四号証を総合すると、次の事実が認められる。

本件事故当時、被告会社には代表取締役社長の被告佐藤、その義弟である取締役専務米沢敏治のほかに、被告石倉ら九名の従業員がいた。和多見町に本店があり既製紳士服を販売していたほか、伊勢宮町に支店があり婦人服及び若者向けの紳士服を販売していた。支店には被告石倉を含む従業員四名が配置され、同被告は紳士服売場の店頭販売だけでなく出張販売にも従事し、他三名は女子で婦人服売場の店頭販売に当つていた。出張販売の地域は松江市から安来市に及んでいる。被告石倉は従前より自己の自動車であるスバルで通勤し、出張販売等の業務には被告会社保有の自動車三台のうち軽自動車たるキヤロルを使用していたところ、昭和四七年三月初めころ、キヤロルよりもスバルのほうが性能もよく営業の能率もあがるので業務にも自己の車を使用させて欲しい旨米沢に申し出て、同人の了承を得たうえで以後スバルを営業にも用いていた。被告佐藤は米沢より右事情を聞いてこれを黙認していた。なお、出張販売に従事していたものは、被告石倉のほかに、本店の米沢専務、事故の二、三ケ月前に入社し出張販売の見習をしていた内田の両名がおり、被告会社の三台の車を各自が使用し、原則的にはライトバンサニーを米沢、マツダ普通乗用車を内田、被告石倉が前出車となつていた。しかし同年三月勝部政男が入社して出張販売に従事するようになり、専属的に使うには車が不足を来し、勝部は自己の普通乗用自動車を被告会社の承認のもとに使用することとし、これと同時頃被告石倉は前示自家用車を社用に供するようになつた。被告石倉は、自家用車で通勤していた同年二月までバスの定期代の半額である二、二〇〇円を交通費として支給されていたが、業務にも自己の車を使用するようになつてからは、右交通費を貰わず被告会社のガソリン、チケツトを用いて給油を行うようになつた。被告佐藤は三月末米沢の助言もあつて被告石倉の使用した三月分のガソリン、チケツトのうち一五〇リツトル分を被告会社で負担することとした。また、被告佐藤は被告石倉に任意保険を掛けることを勧め、同年四月一五日同保険に加入させて保険料の半額を被告会社で負担することとした。同年四月二一日ころ、被告石倉はスバルを加害車となつたカペラに買替え、同車を通勤及び業務に使用し、この業務に供していることを米沢専務は知つていた。(なお、スバルには任意保険が掛けられていたが、カペラへの車種変更に伴う右保険の切替えは本件事故当時未だなされていなかつた。)本件事故日は祭日であるが、被告会社では本、支店ともいわゆるかきいれ時として営業をし、被告石倉は午前一〇時五〇分ころカペラに商品持出伝票に持出を明記した紳士服三着を積み込んで支店を出発し、東津田町にある得意先の島根マツダに赴き、従業員らと洋服の売込みや雑談などし、車で来合せた勝部政男と話をしているうち、当日掛座町に開店したボウリング場「白鳥ボウル」で遊ぶことに話がまとまり、午前一一時三〇分ころカペラに勝部を同乗させて右ボウリング場に向つた。被告石倉及び勝部は三〇分ほどゲームを楽しんだのち、午後零時三〇分ころ同所を出て、佐藤造機の寮に勝部の友人を訪ねて一時立ち寄つたのち、島根マツダに帰る途中本件事故を惹起した。

以上の事実が認められる。米沢の証言中には、事故日島根マツダは休みであり、被告石倉が紳士服三着を持出すに際し記入した持ち出し伝票(前記乙第一四号証)の点検記入者欄のサインは勝部のものであり、被告石倉は勝部とボウリングに行くことを示し合わせたうえ支店を出たものと思う旨の証言部分があるが、勝部の右のサインをした経緯は証拠上必ずしも判然としないのみか、前記丙第五号証、丁第六号証、成立に争いのない甲第一号証によれば、被告石倉は本件事故により刑事責任を問われたが、その過程において島根マツダへは仕事に出掛け、偶然勝部も来合わせた旨供述し、被告本人尋問と首尾一貫しているだけでなく、前記丁第四号証によれば、勝部政男も警察官の取調べに対し符合する供述をしていることが認められ、これらの事実に照らすと、証人米沢の右証言はたやすく措信しえない。証人増本裕貴男の証言により真正に成立したものと認めうる乙第八号証の記載内容は、同証言により真実に背触していることは明らかである。他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

しかして、以上認定の事実関係によれば、被告石倉は本件事故の約二か月前より被告会社の許諾といいうる米沢専務の承諾を得て自己の自動車を被告会社の業務に継続的に使用していたものであり、本件事故は被告石倉がボウリング場で遊戯を楽しんだのちの帰途において惹起されたものとはいえ、同所に赴くまでの被告石倉の行動の経緯、同所で費した時間が僅か半時間であり、また昼食の時間帯に近い時刻でもあること、右ボウリング場及び本件事故の発生場所は被告石倉の通常の営業の領域内にあり、更には被告石倉は業務に復帰する中途で本件事故を惹起したこと、これらの点を併せ考えると、被告会社は石倉車の本件事故時の運行につき運行支配を有していたものというべきであつて、運行供用者に該ることは否定しえない。被告石倉が業務時間帯に遊興しこれがあるべき形態でないことは明らかであるが、このことは右判断を左右するものとなりえない。

3  被告佐藤の代理監督者責任

被告石倉が自動車を運転中過失により本件事故を惹起したこと、右事故当時被告会社が被告石倉の使用者であつたことは前叙のとおりである。そして、前認定の被告会社の事業の態様、被告石倉の業務の内容及び自動車の利用状況、本件事故当日の被告石倉の行動、本件事故発生の時刻及び場所などに照らすと、被告石倉の右運転行為は被告会社の事業執行の範囲内の行為と認められる。

しかして被告佐藤が被告会社の代表取締役社長である事実と被告佐藤本人の供述を総合すると、同被告が本件事故当時被告会社の事業全般を統括しこれを監督していたことは明らかで、被告佐藤は被告会社に代つてその事業を監督していた者といいうるから民法七一五条二項により後記の損害を賠償する義務を負う。

4  被告松江市の運行供用者責任について

前認定の本件バスの右折状況及び石倉車とのすれ違い状況、右すれ違い直後の石倉車と被害車両との衝突事故の発生経過によれば、本件バスの右折と右事故との間に因果関係があつたことは明らかであり、また被告松江市が本件バスの運行供用者であることは当事者間に争いがない。

そこで、被告松江市の自賠法三条ただし書の免責の抗弁につき判断する。

本件バスの運転手飯塚が、対向車の流れが切れた際西進して来る石倉車との間隔がかなり離れていることを確認したうえで右折を始めたこと、そして右間隔は少くとも一二〇メートル程度はあつたこと、他方石倉車は時速八〇キロ以上の速度で走行していたこと、以上の事実は前認定のとおりである。しかして、一二〇メートルも離れた地点より対向して来る自動車の速度を的確に認識することの困難なことは経験則上明らかであつて、飯塚には、石倉車が右の速度で走行していることを認識すべき注意義務はなく、同車が法定の速度を遵守していることを前提にして、右折により危険が発生するか否かを判断すれば足りるものというべきである。本件バスの右折所要時間は前示の如く六秒程度であつて、石倉車が法定の時速六〇キロ(秒速一六・七メートル)の速度を遵守していたとすれば、右六秒の間に同車は一〇〇メートル程度しか運行しない。従つて、一二〇メートルもの間隔をおいて右折した飯塚の行為は相当であつて、何ら不注意として責むべきものではなく、本件事故は被告石倉の前記過失のみにより生じたものというべきである。そして本件事故の態様自体から、運行供用者たる被告松江市の過失の有無及び本件バスの構造上の欠陥又は機能の障害の有無が本件事故と無関係なることは明らかであるから、被告松江市には本件事故により生じた原告らの損害を賠償する義務はないものというべきである。右判断にそわない趣旨を含む成立に争いない丙第一号証(刑事判決書謄本)の記載は採りえない。

六  損害

1  原告三名の傷害の部位程度

成立に争いのない甲第五号証、甲第一二号証の一ないし五、第一三、第一四号証、原本の存在と成立に争いない乙第三号証の五、昭和四七年七月に原告佳子を撮影した写真であることに争いない甲第一〇号証、原告美和子本人の供述を総合すると、次の事実が認められる。

(一)  原告らは、本件事故によりその主張する傷害を負い、その主張する入通院治療を要した。なお原告佳子は右のほか昭和四七年一〇月三一日までに少くとも三二日ほど松江市立病院に、また昭和四九年一月八日までに少くとも一〇日ほど東京警察病院にそれぞれ通院している。

(二)  原告美和子は入院時意識障害が数十分継続した状態であつた。頭重感が長く続き、事故後一年以上を経過した昭和四八年八月に至つてもなお頭痛があつた。しかし、現在後遺症はない。原告裕司も入院時意識障害が数十分継続した状態であつた。脳波に異常がみられたが、事故後一か月余を経た五月一六日には正常になつた。頭蓋内圧亢進が治癒せぬまま一応退院し、右亢進は甲第五号証記載の原供述日たる昭和四八年八月一六日においても解消していない。しかし、現在後遺症はない。原告佳子は救急入院時意識障害が強く、ただちに気管切開の手術を受け、また上口唇縫合などの手術も受けた。入院後二週間にわたり髄液が鼻腔より流出する状態であつた。その後五月二日には上顎骨骨折の整復手術を受けた。脳波にも異常がみられたが、六月一一日一応退院した。東京警察病院では、てんかん症状に対する投薬治療を受けるとともに、頭蓋及び外傷性鞍鼻の形成手術、頭部及び鼻翼部の醜状瘢痕の形成手術などを受けた。同原告は現在鼻軟骨の大部分の欠損のため代用品を鼻部に捜入しており、これを毎日洗滌しなければならない。また嗅覚も脱失している。昭和四九年七月二三日、鼻軟骨の欠損等が自賠法施行令別表の第七級一二号に該当し、また嗅覚の脱失が一二級に相当し、等級併合により後遺障害第六級であるとの認定を受けている。

2  損害の項目、数額

(一)  俊雄の逸失利益と原告らの相続総計四、六九四万一、二八六円

請求原因1(六)は争いない。

俊雄は右のとおり大正一四年四月七日生れで、本件事故当時四七歳であり、昭和四八年簡易生命表によると四七歳の男子の平均余命は二七・五二年であるから、同人は少くとも七三歳まで生存しえたものと推認される。島根県教育委員会に対する昭和五一年五月二四日付調査嘱託に対する回答結果(第四回)によれば、俊雄は五八歳で退職勧奨の対象者となり、昭和五九年三月末日退職の運びとなり、その間左記の年間収入欄記載の教員給与を受け(ただし、昭和四七年は事故の翌日から一二月末日までの給与であり、また昭和五九年の収入額のうち九五万七、一〇八円が一月一日から三月末日までの教員給与である)、右退職後から死亡するまで年額にして一八六万九、五一六円の退職年金を受給しえたものと認められる。また教員退職後も六三歳(昭和六三年)までは労働可能であり、その間年額にして一七〇万六、四〇〇円の労働収入(昭和四九年賃金センサス中の産業計、企業規模計、学歴計、男子労働者の年齢別給与等による。)を得るものと認めるのが相当である。収入から控除すべき俊雄の生活費については、原告らは年間生活費を三七万〇、四七六円であると主張し、その証拠として甲第八号証の一、二(金銭出納帳。原告美和子本人の供述により俊雄が作成したものと認められる。)を提出するが、このような家計費をもとに将来の生活費を算出するのは相当ではなく、俊雄の年間生活費は労働可能な六三歳までは年間収入の三割、それ以降は年間収入の五割と認めるのが相当である。各年間収入から生活費を控除し、更にホフマン計算方式により年五分の中間利息を控除して逸失利益の事故当時における現在価額を算出すると(計算式は年間収入×〇・七(昭和六四年以降は〇・五)×ホフマン係数)、次のとおりとなり、その合計額は三、六五七万九、五八七円となる(昭和五九年の年間収入額は一月から三月までの前記教員給与分と四月から一二月までの前記労働収入分及び退職年金分とを合わせたものである)。

(暦年、昭和) (年間収入、円) (ホフマン係数) (現在価額、円)

47 一四五万七、二八二 〇・九五二三 九七万一、四三八

48 二五六万九、三七二 〇・九〇九〇 一五〇万七、六三一

49 三四七万一、四一五 〇・八六九五 二一一万二、八七六

50 四一二万〇、六三八 〇・八三三三 二四〇万三、六〇九

51 四三五万四、九一七 〇・八〇〇〇 二四三万八、七五三

52 四四五万八、四五五 〇・七六九二 二四〇万〇、六一〇

53 四四九万五、五三九 〇・七四〇七 二三三万〇、八九二

54 四五五万三、九六六 〇・七一四二 二二七万六、七〇九

55 四六〇万三、三三五 〇・六八九六 二二二万二、一二一

56 四六二万四、二六八 〇・六六六六 二一五万七、七七五

57 四六六万五、六五〇 〇・六四五一 二一〇万六、八六七

58 四六六万五、六五〇 〇・六二五〇 二〇四万一、二二一

59 三六三万九、〇四五 〇・六〇六〇 一五四万三、六八二

63~60 毎年三五七万五、九一六 二・二五五七 五六四万六、三三五

73~64 毎年一八六万九、五一六 四・七二七五 四四一万九、〇六八

更に、前記調査嘱託の結果によれば、俊雄は前示の教員退職時に一、六九三万四、八六〇円の退職手当金を支給されることが認められ、同じくホフマン計算方式により年五分の中間利息を控除して、この逸失利益の事故当時における現在価額を計算すると(ホフマン係数は〇・六〇六〇)、一、〇二六万二、五二五円となる。従つて、俊雄の逸失利益の総計は四、六八四万二、一一一円となる。

しかして、原告美和子が俊雄の妻、原告裕司及び同佳子がその子であることは当事者間に争いがないから、原告らは俊雄の右損害賠償請求権を三分の一ずつ相続したものと認められる。(原告ら各自一、五六一万四、〇三七円)。

(二)  原告ら固有の損害総計一、九七四万〇、八四七円

(1) 療養関係費 合計五三万九、六〇〇円

原告美和子及び同裕司が本件事故により三四日間入院したことは前示のとおりで、前記甲第一三、一四号証によれば、右入院期間のうち八日間は右被告両名ともに付添看護を必要とする状態であつたことが認められる。そして、入院一日あたり少くとも三〇〇円の入院雑費及び付添一日あたり少くとも一、二〇〇円の看護費を要することは当裁判所に顕著であるから、右被告両名がいずれも入院雑費として一万〇、二〇〇円、付添看護費として九、六〇〇円の各損害を蒙つたことが認められる。また、前認定の原告佳子の入院及び手術の状況、更には弁論の全趣旨を総合すると、同原告が治療費、入院費等の療養関係費として少くとも五〇万円を支出し同額の損害を蒙つたことが推認される。

(2) 葬儀費 二〇万円

前記甲第五号証及び弁論の全趣旨によれば、原告美和子の入院中に俊雄の葬儀が行われたことが認められ、通常葬儀の費用に少くとも二〇万円を要することは当裁判所に顕著な事実であり、右葬儀費用は原告美和子の負担に帰し、同原告が同額の損害を受けたことが推認される。

(3) 原告佳子の逸失利益 八七〇万一、二四七円

原告佳子は昭和三四年一一月二六日生れで、事故当時一二歳五月であり、経験則上、一八歳五月の時点から六三歳五月に達するまでの四五年間就労が可能でその間平均して少くとも八七万六、七〇〇円の年間収入(昭和四九年賃金センサス中の産業計、企業規模計、学歴計の一八歳ないし一九歳の女子労働者の平均給与等による。)を得ることができるものと認められる。そして、同原告には本件事故による前示後遺障害が残つており、嗅覚の脱失による労働能力の低下は少からぬものであること、また女性の場合には顔面の醜状により給与条件の良い職種を選択する自由を狭められ就職の機会も通常人よりも減少するであろうこと、これらの点を勘案すると、右後遺障害による同原告の労働能力の喪失割合は五割と認めるのが相当である。そして、右後遺障害は、その態様自体から今後回復する見込のないことは明らかで、右労働能力の喪失割合は前記就労期間中不変であると推認され、同原告は右期間中毎年四三万八、三五〇円相当の得べかりし利益を失うこととなる。この毎年の逸失利益からホフマン計算方式により年五分の中間利息を控除して事故当時における現在価額を求めると(ホフマン係数は、事故時から就労の終期までの五一年の係数二四・九八三六より事故時から就労の始期までの六年の係数五・一三三六を差引いた数値、即ち一九・八五である)、八七〇万一、二四七円となる。

(4) 原告らの慰藉料 合計一、〇三〇万円

前認定の本件被害の程度殊に俊雄の死亡と原告佳子の傷害、後遺障害の態様、原告らの入通院期間、原告らの事故当時における年齢、本件事故の態様、更には前記甲第五号証と原告美和子本人の供述によつて認められる。本件事故前の原告らの円満で健康な家庭生活と事故後の原告らの生活状況、被告石倉及び被告会社の後記の出捐状況、その他本件に顕われた諸般の事情を考慮すると、原告らが本件事故により蒙つた精神的損害に対する慰藉料は、原告ら主張の原告美和子について二九〇万円、同裕司について一九〇万円、同佳子について五五〇万円を下らないものというべきである。

(5) 損害の填補 総計二、八二八万一、七〇二円

(イ) 被告らの弁済金 合計九五万円

被告石倉らから原告らに対し九五万円の支払がなされ、そのうち三〇万円が原告美和子の、一五万円が原告裕司の、五〇万円が原告佳子の本訴請求の各損害に対する弁済金であることは当事者間に争いがない(なお、被告石倉は、原告らの損害等につき被告石倉が一〇二万〇、九八七円を、被告会社が一二二万〇、九五八円を各出捐しており、これら出捐のうちには原告らの損害に対する填補たるものが含まれている旨主張し、成立に争いのない乙第三号証の一二によれば被告石倉らが本件事故に関して支出した金額が合計二八二万二、八五四円であること、このうち九五万円は右認定の損害填補分であること、また五〇万円は被害車両の損害填補分であつて原告らの本訴請求の各損害とは関係がないこと、残額の一三七万二、八五四円は香奠、入院見舞その他に要したことが認められるので、右の一三七万二、八五四円については前記慰藉料算定の斟酌事情とした)。

(ロ) 退職手当金 二七七万八、八二八円

俊雄の死亡に伴い退職手当金二七七万八、八二八円が支給され、その三分の一ずつ(九二万六、二七六円)が原告らの各損害に対する填補として充当されたことは当事者間に争いがない(なお、島根県職員の退職手当に関する条例九条二項によると、退職手当の受給権者は俊雄の配偶者たる原告美和子であるが、右退職手当金が原告ら各自の損害の填補に充当されたことについて被告らは争つていないから、同原告への全額填補、爾余の原告への填補排除という修正をしないこととする)。

(ハ) 遺族年金 八九七万七、九七四円

原告美和子が俊雄の死亡により、地方公務員共済組合法に基く遺族年金として、昭和四七年に二四万六、七五二円、昭和四八年に二五万四、四〇〇円、昭和四九年に二九万三、〇四〇円を支給され、また昭和五〇年以降昭和八六年(原告美和子七九歳)までの間に毎年四二万二、八〇〇円を受給しうること、そして右の毎年の遺族年金からホフマン計算方式により年五分の中間利息を控除して本件事故時の現在価額を計算すると原告らの主張する八九七万七、九七四円となり、これが原告美和子の損害より控除されることについては当事者間に争いがない。

(ニ) 自賠責保険金 合計一、五五七万四、九〇〇円

亡俊雄分として九八五万円、原告美和子固有分として一二万九、八四〇円、同裕司固有分として九万五、〇六〇円、同佳子固有分として五五〇万円が支給されたこと、固有分は当該原告の損害に振向けられ、亡俊雄分につき原告らがその主張の項目、数額に充当したことは当事者間に争いない。

(6) 弁護士費用 合計一二〇万円

成立につき争いのない甲第一一号証の一、二及び原告美和子の供述によれば、原告らは本件訴訟の追行を松永弁護士に委任し、着手金及び成功報酬として認容額の一割五分を支払う旨約したことが認められるが、本件事案の内容、審理の経過、認容額等に照すと、本件事故と相当因果関係のある弁護士費用は、原告ら各自四〇万円と認めるのが相当である。なお、証拠上右弁護士費用を既に支払つていることが明らかでないから、右費用に対する遅延損害金の支払を求める部分は理由がない。

七  そうすると本訴請求は、被告石倉、被告会社、被告佐藤各自に対し、原告美和子につき六四八万三、五五九円及びそのうち弁護士費用を除いた六〇八万三、五五九円に対する本件事故発生の日の翌日である昭和四七年四月三〇日から支払ずみまで年五分の割合による遅延損害金の、原告裕司につき一、二九九万五、五九五円及びそのうち弁護士費用を除いた一、二五九万五、五九五円に対する前同日から支払ずみまで年五分の遅延損害金の、原告佳子につき二、〇〇二万二、一〇二円及びそのうち弁護士費用を除いた一、九六二万二、一〇二円に対する前同日から支払ずみまで年五分の遅延損害金の、各支払を求める限度で、それぞれ理由があるから認容し、前示被告三名に対するその余の請求および被告松江市に対する全請求は理由がないから棄却すべく、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき一九六条一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 今枝孟 那須彰 中村謙二郎)

別表Ⅰ 原告別損害及請求額明細書

<省略>

別表Ⅱ 原告岩田佳子の労働能力低下による得べかりし将来の利益の損失

・後遺障害等級 6級

・労働能力喪失率 67%

・労働能力喪失期間 18歳(本件事故から6年後)~67歳(同55年後)

・基準となる収入額

月収 64,500円

賞与等(年額) 102,700円

年収 64,500円×12(月)+102,700円=876,700円

(以上は昭和49年賃金センサス第1巻第1表中、全産業全女子労働者の「18~19歳」の平均給与額による)

・労働能力低下による得べかりし利益の損失(年額)

876,700円×0.67=587,389円

・本件事故当時の現価

587,389円×(2.607231947-5.13360118)=12,299,172円

26.07231947…55年の単利年金現価率

5.13360118……6年の単利年金現価率

別表Ⅲ 訴外岩田俊雄の得べかりし将来の利益の損失明細書(現価算定基準日S47・1・1)

<省略>

別表Ⅳ 訴外俊雄の生活費計算表

<省略>

別表Ⅴ 原告岩田美和子が受ける遺族者年金計算書

(各年度とも、4月28日に受給するものとする)

1 昭和47年受給額 246,752円………<1>

2 昭和48年受給額 254,400円

本件事故当時の現価

254,400円×0.95238095(1年のホフマン係数)=242,286円(小数以下切上げ)………<2>

3 昭和49年受給額 293,040円

本件事故当時の現価

293,040円×0.90909091(2年のホフマン係数)=266,401円(小数以下切上げ)………<3>

4 昭和50年以降受給額 422,800円

受給期間………昭和86年まで

(美和子は本件事故当時40歳であり、昭和49年簡易生命表によると、平均余命は38.30年であるが長めにみて39年とする。

従つて受給期間は39年後たる昭和86年までである)

本件事故当時の現価

422,800円×(21.30928178-1.86147186)=8,222,535円(小数以下切上げ)………<4>

(但し 21.30928178………39年の単利年金現価率

1.86147186………2年の〃)

5 合計 (<1>+<2>+<3>+<4>)

8,977,974円

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